では、なぜ私はこむちゃを聴き続けるのか。 『こんな非道い仕打をする番組なんぞもう知らん』と斬り捨ててしまうのは簡単だが、それではあまりにも短絡的で無責任だと思う。もしそうだったなら私は『こむちゃ研究家』の看板など降ろしてとっくにこのサイトを引き払っていることだろう。 ならば、なぜ私は今もなおここにいるのか。 私は、『こむちゃ』とは、ある種の宝箱ではないかと思っている。天から1週間に1個与えられる、中身に何が入っているかわからない宝箱。それにはお宝が詰まっているのか、それともガラクタしか入っていないのか、はたまた罠が仕掛けてあるのか、それは開けてみない限り誰にもわからない。そんな箱に我々は希望を求めているのではないのだろうか。ある人は「○○が入っていたらいいな」と願いをかけ、またある人は「この箱の中身はきっと△△だろう」と予測を立てる、といったように。 ここ最近、箱の中身は私を含む多くの人にとって、望んでいるものと大きく異なっていたのだろう。そういう意味では先週(11/3)のは結果として『パンドラの箱』と云うべきものだったのかもしれない。 しかし、箱を開けない限りその中身はわからないし、ましてや次の箱に手を出すこともできない。我々は葛藤しながらも箱を開け、前に進んでいくしかないのだ。 もちろん、『こむちゃ研究家』を自称しているから番組の行く末を見届けているに過ぎない、と云われてもそれは否定できない。しかしそれ以前に、私はその『こむちゃという宝箱』の中身が知りたい。これが私がこむちゃを聴き続けているいちばんの理由である。 開け放たれたパンドラの箱の底には、希望が残っていたという。こうしてこむちゃの現状を心配しあれこれと議論することが、この『希望』なのではないだろうか。 |